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ハゲ天・その時代(4) 2003
<終戦前後(1944〜50年)>
44年になると空襲に備えて建物の強制疎開が始まり、銀座も大きなビルの周りの木造家屋は取り壊され
昭和通りの真中は野菜畑に開墾されます。スパイ活動防止の為、東京湾での釣り舟が全面禁止され江戸前の
魚が市場から消え、兵士の栄養剤の原料とかで目玉をくり抜いた魚が配給されます。1杯20銭の重湯の様な
雑炊食堂が銀座にも350店出来、お米の配給も1人1日2合1勺(315g)に減り、それも乾燥芋や小麦のフスマに
代わったりで、まともに口に入る物すら無くなります。45年には中学の低学年も勤労動員に駆り出され都心の
学校は完全に閉鎖し、そして8月15日の終戦です。
銀座は8丁目の一部を残して一望の焼け野原で、働く目標を失った浮浪者、戦災孤児、進駐軍相手の街娼が
徘徊します。統制の無くなった街で飲食店の戦後復興第一号は9月に神戸に出来た戦勝中国人の中華料理店ですが
ハゲ天も10月にバラックで再開します。明るいニュースでは、漁を止めていた東京湾で鰯が3400tも獲れ、
1人に5匹特配され、工場排水も減ったので渋谷川でもハゼが釣れ10月には1等10万円の宝くじが始まります。
ヤミ米は1キロ18円で配給の3倍ですがズルチン甘味の5円のお汁粉に人が群がる等食糧事情は大混乱、
46年には食糧の供給が更に厳しくなり統制が復活し、着物や家財と食糧との物々交換が始まり、エンゲル係数は
70%、1日の平均摂取カロリーは1380Kcalに落ちヤミ買いしない裁判官が餓死しました。
47年末の米の闇値は48円迄上がり、宝くじも1等が100万円になります。48年に政府は料飲店休業の更に
1年延長を決めますが封鎖預金の解除や配給米が400gに増やされるなど、生活回復の兆しが見えて来て、49年に
なって料飲店の再開が閣議で決まります。
そして50年には朝鮮戦争が始まり、時の池田蔵相が「貧乏人は麦を食え」と言って問題になる程に回復し、
米は1キロ80円です。
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