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ハゲ天よもやま話(7)
<戦前の商売>
ハゲ天が銀座に出た1930年は、関東大震災の帝都復興祭が行なわれ昭和天皇が銀座通りを
巡幸され、銀座の名称が8丁目迄広がった年です。銀座のシンボル和光の時計台は2年後ですが、
松坂屋は24年松屋は25年、三越がこの年4丁目角に開店します。
大型カフェの美人座が1丁目に10月には店の隣に赤玉が出来、世間の不況を他所に銀座は
大いに発展を続け盛り上がって居ました。
店は借室で1階10坪程に9人のカウンター席と厨房、2階は大家さんが住み、3階の6畳一間に
我々親子5人が住むという状況でした。
メニューは「お好きな物をお好きなだけ」で車海老30銭、巻20銭、イカ・芝海老かき揚げ25銭、
穴子15銭、めごち・はぜ・きす10銭、するめいか・しゃこ5銭、菊正宗1合30銭、漬物10銭、
ご飯1ぜん5銭、2ぜん以上幾らでも10銭で、野菜は季節の物を魚の合間にサービスでお出しして
いました。そしてこの値段は食料が統制配給になる1940年ま迄10年間守り続けます。働き手は
最初は親父夫婦と下働きの親父の兄の3人でしたが、後に少し繁盛する様になってからも
調理補助兼接客サービスの「小僧さん」2名だけでした。当時の冷蔵庫は氷ですから、種はその日に
使い切らねばならず、休日は河岸が休みの正月三ヶ日と毎月10日と22日でした。閉店時間は
お客様に合わせ深夜12時を過ぎることも有りお客様は市内は何処でも1円の円タクで帰られました。
ともあれ素人の始めた店が、何とか軌道に乗り発展できたのは、銀座へ出させて下さった
水上滝太郎様の格別のご援助が有ったからで、このご恩は永久に忘れることができません。
後に親父は「資本を出し、お客様を連れて行き、そこの親父の人柄を悪捨良入して宣伝すれば
凡そ繁盛しない店は有るまい。ハゲ天は水上様から正にそうして頂いた店だ」と言っています。
併しこの好調も1940年になると街に「贅沢は敵だ」のビラが張られ、銀座にも戦時色が強まり
段々陰って参ります。
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