|
ハゲ天よもやま話(8)
<戦中の商売>
昭和16年10月30日に銀座の店は隣家からの貰い火で全焼しますが、焼け跡を土地と共に
買取って乏しい資材で2階建ての店舗住宅を新築して家族全員で住むことにします。
昭和17年になると食料の配給統制が厳しくなり、10月には天プラ・寿司にも新公定価格が
定められ、内容・価格共ハゲ天の天プラとは言えません。油もゴマは無く綿実なら良い方で、
常温で固まる椰子油が殆どとなり、それも揚げ物に使う程は纏まって買えません。小麦粉も
フスマと雑穀の粉が混じった黒い粉が少し配給されたり、海老は乾燥桜海老、魚もほっけ・
はたはた・おひょう・ぎんだら等の天プラには向かない切り身が配られます。米はバサバサの
東南アジアの外米、それも週に2〜3日分も無く、それ等で何かを作り決められた値段で売ら
無ければ闇に流したと言われます。そこで乾燥海老に乾燥ほうれん草を混ぜ、椰子油で統制外の
カレー粉のチャーハンを売りました。これは大人気でしたが、もはや天プラ屋では有りません。
昭和19年にも成るとお米が半減され、配給の色々な物をごちゃ混ぜにした雑炊を週に1日昼だけ
50人程売りましたが、お客様はそれにも大行列でした。そして20年1月27日昼に数十機のB29が
来襲し、銀座は爆弾の猛爆を受け銀座通りにも地下鉄の線路が見える穴が開き、泰明小学校の
先生や疎開帰省用の切符を買う為に有楽町に並んでいた100名近くが亡くなられ電車も2週間程
駅に止まりませんでした。
銀座の本格的な夜間空襲は3月10日が最初で、日本橋から江東にかけて大火災になり明方になって
銀座2丁目まで火が来ましたが、何とか消し止めこの時は3丁目以南は無事でした。次が5月25日夜の
B29 250機で15万発の焼夷弾の絨毯爆撃で、2年前に建てたハゲ天も含め銀座は6丁目迄完全な
焼け野原となります。この時父と私は猛火の渦をヤッとの思いで傍のビルの地下に転がり込み生き延び
ました。もう商売どころでは有りません。
[
戻る
]
|